今も昔も問題化されている、学校での「いじめ」。私も元いじめ被害者でした。
もちろん、いじめの被害を受けている間は、精神的に非常につらい思いをしました。何度か自殺を考えた
ほどです。
今思えばあんなのいじめのうちに入んねえよとも思いますが、当事者が不快に感じていたのならそれは
立派ないじめなわけです。被害者の精神の弱さを笑うべきではないのです。これをわからずに「いじめの
原因は被害者にもある!」とかドヤ顔で語っちゃうお察しな方々がいるわけですけどね。
でも、なぜいじめが起こるの?彼らは何が目的なの?なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの?
当然の疑問です。心理学的論拠は何もないあくまで私の想像と経験則ですが、その疑問とその背景にある
諸問題について考えていきましょう。
私がいじめを受けていたのは小学校時代です。加害者のメンバーは変遷しましたが6年間ずっといじめを
受けていました。
ひとまず加害者はおいておき、私に何の問題があったのか。客観的に分析していきます。
当時の私は現在との私とはまるで違った人物でした。真面目で、正義感が強くて、とても素直で、成績も
優秀で、優しい子でした。自画自賛は嫌いですが、かなり優れた子でしたね。それがどうしてこうなった
まずここに問題点があります。
人物的にはまったく問題ないです。むしろ模範とすべき人物と言えるでしょう。しかしその「優秀である」
という点が、いじめを引き起こすのです。
つまり、嫉妬。いじめをするような人物はやはり性格に問題があるわけで、さらに成績も低いことが多い
です。なので、人物面で「自分より多くの点で優れている」ということが気に食わないのです。
だから、嫉妬する。嫉妬は他者への攻撃につながります。
しかし、それだけではまだ動機は弱い。単なる嫉妬なら誰もが抱くでしょう。ではその嫉妬を攻撃に変え
る要因は何なのか。
「他者を攻撃し、屈服させるor撃破する」というのは、つまり「相手に自分の力を示し、優位性を得る」と
いうこと。だから、人物的な面で自分が劣等であると格付けされることを嫌い、自分の優位性を示す為に
攻撃するのです。肉体的でも精神的でも、相手を自分に屈服させることで自分の立ち位置を示すのです。
昔の侵略戦争と似た感覚ですね。
「他者に示す」だけではなく、「自ら優位性を実感する」という目的のこともありますが、大抵は外部への
主張が目的です。その証拠に、いじめを行う者には大抵取り巻きがいます。彼らに「自分は強い、優秀で
ある」と認めさせることで自分の地位を高めているのです。そして、その取り巻きも「その優秀な人物を
肯定している自分も同時に優位に立っている」と考えるのです。
この感覚はこと日本における教育体系の下では発生しやすいものなのです。
日本の教育は往々にして、所謂「出る杭は打たれる」と表現できる教育体系を取ることが多いです。
つまり、普遍性、平等性を重視し、他者との連携を取りやすくし協調体系を構築させる。それを乱す
特異な個性は排除する。よく取り上げられる小学校の「道徳」の授業の話でよくわかるでしょう。教員が
設定した模範解答に沿った思考に基づく道徳心を植え付け、そこから大きく外れた思想は矯正されます。
この教育が全面的に問題があるとは言いません。当然長所もあります。
普遍性を重視するということは「相手は自分と同様の存在である」という意識を形成させます。そのため、
自分と他者の立場を共通化できる、自分を他者の立場に置くことができるわけで、それが所謂思いやりの
精神につながります。「自分がこうされたら嬉しい」「自分がこうされたら嫌だ」という思想です。
日本社会の協調性が非常に高く、治安も良好であるのはこの教育のおかげであると言えます。
よく日本人は他者を重んじる、自己中心的な人が少ないなどと言われますが、あくまでこういう意識が
そうさせるのであって、結局は自己中心的な人が多いのです。
また、この高度な協調システム下においては、協力が自分の利益につながることが多く、結果的にその
協調性が強化されていくというわけです。
さて、ここからが本題です。生物、特に人間は本能的な上昇志向と個の主張の欲求を持っています。
しかし、日本の教育ではこの欲求を抑圧してしまい、不満が募ります。「お前はほかの人間となんら変わ
りない存在である」と教育されてるわけですから、それを脱したいという欲は余計に強くなります。
ではその欲求を満たすもっとも簡単な方法は何か。他ならない、「力によって他社を圧倒する」ことです。
平等性を重視しても、やはり能力に差は生じます。だから個性を出せない状況下で劣等のレッテルを貼ら
れた者はこうするしかなくなるのです。
では、そうした優れた人間はみな攻撃されるのか、そうではありません。同じような条件でも全くいじめ
を受けたことがない人だっていますし、むしろ加害者の側に回る人もいます。私をいじめていた連中にも
私と同レベルの成績の者もいました。また、別に優れた人間でなくてもいじめられる場合はもちろんあり
ます。これはほかの動物にもよくあることなのですが、全員が平均的であると仮定して、自分の優位性を
示す為に一人を攻撃して下位に位置づけるという形もありますし、またこうした個性を抑圧した社会の
中では、個性の強い者は異物として扱われ、虐げられるのです。民族の違い、出身地の違い、特殊趣向、
障害、また福島から避難した先でいじめを受けたという例に代表される特殊な要因もあります。なので、
単純に「優秀であったから」いじめを受けた、というわけではありません。
では私はなぜいじめられたか?答えは単純、弱かったからです。
今でこそアホみたいに強靭な精神(というか無神経)を持ち、よほどのことがなければ精神的ショックを
受けることなどない私ですが、当時はまさに豆腐メンタルで、ちょっとのことで泣いていた弱虫でした。
さらに運動も苦手だった(まぁ現在も苦手ですが)ので、肉体的にも精神的にも弱かった私は格好の攻撃の
的だったのです。
ではやっぱり被害者にも問題はあるじゃないか、そう思うかもしれないですが、だからといってどうする
こともできないのです。運動出来ないというのは趣味にもよりますし、身体的な事情で苦手という場合も
あります。精神は鍛えられるかもしれませんが、時間がかかります。前述のように今は強い精神を持って
いる私ですが、どうやってその精神力を身に付けたかと言えば、まさにいじめが大きな要因です。
散々いじめを受けたせいで「自分への否定にショックを受ける」という感情がひとつ死んでしまったという
のが大きいですね。6年(実際には中1でも少々いじめ(相手は軽くからかっている程度だったらしい)を
受けていたので7年)かかって耐性をつけたのですから、そう簡単にいくものではないのです。
では被害者は何もできずただ虐げられる日々を送るしかないのか。
決定的な方法ではないですが、いじめの被害を減らす方法はあります。
これにはもう少しいじめの要因を説明する必要があります。
俗に「嗜虐心」という言葉がありますが、いじめの要因の一つとしても挙げられます。
つまり、自分の強さの誇示だとかそういった目的抜きに、「攻撃すること自体を快楽とする」というもの。
そしてこれにはおおまかに2種類に分けることができます。
1つは、「攻撃することによって相手が屈する、傷つく、必死に抵抗する、その姿を楽しむ」というもの。
つまり相手の行動を目的にしているのです。
もう1つは、「相手の行動に関係なく、純粋に『攻撃を加えること』を楽しむ」というもの。つまり、相手
がどう振る舞おうと関係がない。
ここで先ほどの「いじめの被害を減らす方法」の話に戻ります。
その方法は、ズバリ「何をされても無視をする、または一切傷ついていないよう振る舞う」ことです。
「傷つかないように精神を鍛える」のは無理ですから、そう「見せかける」のです。内心は傷ついても、
弱みを見せてはならないのです。
自分の優位性を示したいという者の場合は、「いくら攻撃しても優位性を示せないのなら意味がない」と
諦めるでしょう。
相手の抵抗や屈服を見るのが楽しいという者の場合は、その振る舞いが見られなくいなったので攻撃に
飽きるでしょう。
ということで割と有効な手段といえます。
しかし、最後に上げた「攻撃自体を楽しむ」タイプの場合、まったく効果がありません。相手が無視しても
そんなことは関係ないのですから。
ただまぁ、そういうタイプのは極稀でしょうけど。
問題は、対処できると前述したタイプのイレギュラー。一切ダメージがない、まるで何もなかったように
振る舞う、というのは、ある種「自分の攻撃が無視されてる、自分の存在価値をさらに下げている」とも
受け取れるわけで、そこから逆上を引き起こす恐れもあります。また、単純に「これで屈しないなら
もっと攻撃してやろう」といじめが激化していく可能性もありますし、「なんで傷つかないんだ」と理不尽
に逆上されることもあるかもしれません。
なので、ある種特定の条件がそろった場合のみ機能する方策と言えるかと思います。
他の方法は、正直効果的な方法は思いつきません。しかし、加害者側に改善を求めても、明確な罰則でも
設けない限り無理な話でしょう。加害者側にとっては自分のやりたいことを抑制させられるだけなので
何も対価は得られないわけで、交渉の無駄です。
しかし、被害者は常に改善を求めているのですから、被害者側で何か対策を講じるというのは重要だと
思います。いじめが発生したというのなら、加害者をとやかく言っても無駄ですから(もちろん厳重注意
は必要です)、被害者と協力して何か対策を講じましょう。問題の解決とは言えませんが被害の軽減は
できるのですから。
さて、「攻撃されても無視をする」といっても、これは容易にできるものではありません。感情というのは
容易に内に秘められるものではないのです。なので、我慢した感情は加害者がいないところでしっかり
吐きだしましょう。だれも見てないなら思い切り泣けばいいのです。
だから、周りの人も協力してあげてほしいのです。泣きつく相手がいなければ、結局は自分で背負うこと
になるのですから。
というわけで、いじめ経験者がいじめについて長々と語ってみました。
もちろん、いじめの被害を受けている間は、精神的に非常につらい思いをしました。何度か自殺を考えた
ほどです。
今思えばあんなのいじめのうちに入んねえよとも思いますが、当事者が不快に感じていたのならそれは
立派ないじめなわけです。被害者の精神の弱さを笑うべきではないのです。これをわからずに「いじめの
原因は被害者にもある!」とかドヤ顔で語っちゃうお察しな方々がいるわけですけどね。
でも、なぜいじめが起こるの?彼らは何が目的なの?なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの?
当然の疑問です。心理学的論拠は何もないあくまで私の想像と経験則ですが、その疑問とその背景にある
諸問題について考えていきましょう。
私がいじめを受けていたのは小学校時代です。加害者のメンバーは変遷しましたが6年間ずっといじめを
受けていました。
ひとまず加害者はおいておき、私に何の問題があったのか。客観的に分析していきます。
当時の私は現在との私とはまるで違った人物でした。真面目で、正義感が強くて、とても素直で、成績も
優秀で、優しい子でした。自画自賛は嫌いですが、かなり優れた子でしたね。
まずここに問題点があります。
人物的にはまったく問題ないです。むしろ模範とすべき人物と言えるでしょう。しかしその「優秀である」
という点が、いじめを引き起こすのです。
つまり、嫉妬。いじめをするような人物はやはり性格に問題があるわけで、さらに成績も低いことが多い
です。なので、人物面で「自分より多くの点で優れている」ということが気に食わないのです。
だから、嫉妬する。嫉妬は他者への攻撃につながります。
しかし、それだけではまだ動機は弱い。単なる嫉妬なら誰もが抱くでしょう。ではその嫉妬を攻撃に変え
る要因は何なのか。
「他者を攻撃し、屈服させるor撃破する」というのは、つまり「相手に自分の力を示し、優位性を得る」と
いうこと。だから、人物的な面で自分が劣等であると格付けされることを嫌い、自分の優位性を示す為に
攻撃するのです。肉体的でも精神的でも、相手を自分に屈服させることで自分の立ち位置を示すのです。
昔の侵略戦争と似た感覚ですね。
「他者に示す」だけではなく、「自ら優位性を実感する」という目的のこともありますが、大抵は外部への
主張が目的です。その証拠に、いじめを行う者には大抵取り巻きがいます。彼らに「自分は強い、優秀で
ある」と認めさせることで自分の地位を高めているのです。そして、その取り巻きも「その優秀な人物を
肯定している自分も同時に優位に立っている」と考えるのです。
この感覚はこと日本における教育体系の下では発生しやすいものなのです。
日本の教育は往々にして、所謂「出る杭は打たれる」と表現できる教育体系を取ることが多いです。
つまり、普遍性、平等性を重視し、他者との連携を取りやすくし協調体系を構築させる。それを乱す
特異な個性は排除する。よく取り上げられる小学校の「道徳」の授業の話でよくわかるでしょう。教員が
設定した模範解答に沿った思考に基づく道徳心を植え付け、そこから大きく外れた思想は矯正されます。
この教育が全面的に問題があるとは言いません。当然長所もあります。
普遍性を重視するということは「相手は自分と同様の存在である」という意識を形成させます。そのため、
自分と他者の立場を共通化できる、自分を他者の立場に置くことができるわけで、それが所謂思いやりの
精神につながります。「自分がこうされたら嬉しい」「自分がこうされたら嫌だ」という思想です。
日本社会の協調性が非常に高く、治安も良好であるのはこの教育のおかげであると言えます。
よく日本人は他者を重んじる、自己中心的な人が少ないなどと言われますが、あくまでこういう意識が
そうさせるのであって、結局は自己中心的な人が多いのです。
また、この高度な協調システム下においては、協力が自分の利益につながることが多く、結果的にその
協調性が強化されていくというわけです。
さて、ここからが本題です。生物、特に人間は本能的な上昇志向と個の主張の欲求を持っています。
しかし、日本の教育ではこの欲求を抑圧してしまい、不満が募ります。「お前はほかの人間となんら変わ
りない存在である」と教育されてるわけですから、それを脱したいという欲は余計に強くなります。
ではその欲求を満たすもっとも簡単な方法は何か。他ならない、「力によって他社を圧倒する」ことです。
平等性を重視しても、やはり能力に差は生じます。だから個性を出せない状況下で劣等のレッテルを貼ら
れた者はこうするしかなくなるのです。
では、そうした優れた人間はみな攻撃されるのか、そうではありません。同じような条件でも全くいじめ
を受けたことがない人だっていますし、むしろ加害者の側に回る人もいます。私をいじめていた連中にも
私と同レベルの成績の者もいました。また、別に優れた人間でなくてもいじめられる場合はもちろんあり
ます。これはほかの動物にもよくあることなのですが、全員が平均的であると仮定して、自分の優位性を
示す為に一人を攻撃して下位に位置づけるという形もありますし、またこうした個性を抑圧した社会の
中では、個性の強い者は異物として扱われ、虐げられるのです。民族の違い、出身地の違い、特殊趣向、
障害、また福島から避難した先でいじめを受けたという例に代表される特殊な要因もあります。なので、
単純に「優秀であったから」いじめを受けた、というわけではありません。
では私はなぜいじめられたか?答えは単純、弱かったからです。
今でこそアホみたいに強靭な精神(というか無神経)を持ち、よほどのことがなければ精神的ショックを
受けることなどない私ですが、当時はまさに豆腐メンタルで、ちょっとのことで泣いていた弱虫でした。
さらに運動も苦手だった(まぁ現在も苦手ですが)ので、肉体的にも精神的にも弱かった私は格好の攻撃の
的だったのです。
ではやっぱり被害者にも問題はあるじゃないか、そう思うかもしれないですが、だからといってどうする
こともできないのです。運動出来ないというのは趣味にもよりますし、身体的な事情で苦手という場合も
あります。精神は鍛えられるかもしれませんが、時間がかかります。前述のように今は強い精神を持って
いる私ですが、どうやってその精神力を身に付けたかと言えば、まさにいじめが大きな要因です。
散々いじめを受けたせいで「自分への否定にショックを受ける」という感情がひとつ死んでしまったという
のが大きいですね。6年(実際には中1でも少々いじめ(相手は軽くからかっている程度だったらしい)を
受けていたので7年)かかって耐性をつけたのですから、そう簡単にいくものではないのです。
では被害者は何もできずただ虐げられる日々を送るしかないのか。
決定的な方法ではないですが、いじめの被害を減らす方法はあります。
これにはもう少しいじめの要因を説明する必要があります。
俗に「嗜虐心」という言葉がありますが、いじめの要因の一つとしても挙げられます。
つまり、自分の強さの誇示だとかそういった目的抜きに、「攻撃すること自体を快楽とする」というもの。
そしてこれにはおおまかに2種類に分けることができます。
1つは、「攻撃することによって相手が屈する、傷つく、必死に抵抗する、その姿を楽しむ」というもの。
つまり相手の行動を目的にしているのです。
もう1つは、「相手の行動に関係なく、純粋に『攻撃を加えること』を楽しむ」というもの。つまり、相手
がどう振る舞おうと関係がない。
ここで先ほどの「いじめの被害を減らす方法」の話に戻ります。
その方法は、ズバリ「何をされても無視をする、または一切傷ついていないよう振る舞う」ことです。
「傷つかないように精神を鍛える」のは無理ですから、そう「見せかける」のです。内心は傷ついても、
弱みを見せてはならないのです。
自分の優位性を示したいという者の場合は、「いくら攻撃しても優位性を示せないのなら意味がない」と
諦めるでしょう。
相手の抵抗や屈服を見るのが楽しいという者の場合は、その振る舞いが見られなくいなったので攻撃に
飽きるでしょう。
ということで割と有効な手段といえます。
しかし、最後に上げた「攻撃自体を楽しむ」タイプの場合、まったく効果がありません。相手が無視しても
そんなことは関係ないのですから。
ただまぁ、そういうタイプのは極稀でしょうけど。
問題は、対処できると前述したタイプのイレギュラー。一切ダメージがない、まるで何もなかったように
振る舞う、というのは、ある種「自分の攻撃が無視されてる、自分の存在価値をさらに下げている」とも
受け取れるわけで、そこから逆上を引き起こす恐れもあります。また、単純に「これで屈しないなら
もっと攻撃してやろう」といじめが激化していく可能性もありますし、「なんで傷つかないんだ」と理不尽
に逆上されることもあるかもしれません。
なので、ある種特定の条件がそろった場合のみ機能する方策と言えるかと思います。
他の方法は、正直効果的な方法は思いつきません。しかし、加害者側に改善を求めても、明確な罰則でも
設けない限り無理な話でしょう。加害者側にとっては自分のやりたいことを抑制させられるだけなので
何も対価は得られないわけで、交渉の無駄です。
しかし、被害者は常に改善を求めているのですから、被害者側で何か対策を講じるというのは重要だと
思います。いじめが発生したというのなら、加害者をとやかく言っても無駄ですから(もちろん厳重注意
は必要です)、被害者と協力して何か対策を講じましょう。問題の解決とは言えませんが被害の軽減は
できるのですから。
さて、「攻撃されても無視をする」といっても、これは容易にできるものではありません。感情というのは
容易に内に秘められるものではないのです。なので、我慢した感情は加害者がいないところでしっかり
吐きだしましょう。だれも見てないなら思い切り泣けばいいのです。
だから、周りの人も協力してあげてほしいのです。泣きつく相手がいなければ、結局は自分で背負うこと
になるのですから。
というわけで、いじめ経験者がいじめについて長々と語ってみました。